佐賀地方裁判所 昭和33年(わ)185号 判決 1959年11月05日
被告人 原口隆幸
昭四・一・一〇生 無職
主文
被告人を懲役六月に処する。
但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、日本人であるが、昭和二十七年十一月初旬頃から同二十八年八月一日頃までの間において、有効な旅券に出国の証印を受けないで、本邦より本邦外の地域であるルーマニア国ブカレストに出国したものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
被告人の判示所為は出入国管理令第七十一条、第六十条第二項、罰金等臨時措置法第二条に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役六月に処し、諸般の情状を考慮し刑法第二十五条第一項を適用して本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予することとする。
(被告人及び弁護人の主張に対する判断)
第一、訴因の不特定の主張について。
谷川弁護人は、本件起訴状は、出国の日時の記載が不完全であり、また出国の場所及び方法については全然記載がなく、訴因が特定していないから刑事訴訟法第二百五十六条第三項に違反するものであり、本件公訴は棄却さるべきであると主張する。
しかし、刑事訴訟法第二百五十六条第三項の規定は、公訴事実を特定することによつて審判の対象範囲を明確にして、被告人の防禦に実質的不利益を与えないようにするためのものであるから、これが特定できる限り、たとえ出国の時期を相当の幅をもつて表示し、出国地点や出国の方法について明示しなくても、そのことの故に直ちに違法であるとはいえない。本件起訴状によれば、被告人が日本人であることはその本籍地の記載から明らかであり、被告人が有効な旅券に出国の証印を受けることなく、昭和二十七年十一月初旬頃から同二十八年八月一日頃までの間において、本邦から本邦外の地域たるルーマニア国ブカレストに出国した事実が明らかにされてある以上出入国管理令第六十条第二項の犯罪事実の訴因を明示したものと解せられるのであつて、本件のような密出国という犯罪の性質態様及び犯行の機会を得ることの容易でないこと等を勘案すれば、所論の諸点が明示されていないからといつて直ちにもつて本件公訴の提起が刑事訴訟法第二百五十六条第三項の規定に違反し無効であると断ずることはできない。
また、右弁護人は、本件起訴状のような訴因の記載では将来二重起訴をされたような場合に、右期間内に数回密出国しているようなときは、二重起訴の主張をする方法がないというが、検察官は右期間内における出国は一回のみであると釈明しており、本件が有罪の確定判決を経た後に、かりに万一、日時場所方法等を具体的詳細に明示して被告人が密出国したとして起訴されたとしても、その日時が本件起訴にかかる出国の期間内に属する限りすべて二重起訴であるから、確定判決を経たものとして処理されるわけである。
よつて右弁護人の訴因不特定の主張は採用しない。
第二、憲法違反の主張について。
(一) 憲法第二十二条第二項違反の主張について。
谷川弁護人及び被告人は、海外渡航の自由は憲法第二十二条第二項によつて保障されているのに、出入国管理令は海外渡航には旅券を要するものとし、旅券の発給に関する旅券法第十三条の規定は不明確な基準で憲法の保障する海外渡航を禁止する可能性を認めるものであるから、かかる旅券法の規定及びこれを前提とする出入国管理令は憲法第二十二条第二項に違反するものであると主張する。
右主張にいう旅券法第十三条とはその主張の趣旨に照らし同条第一項第五号をいうものと解せられるところ、右規定の合憲性については、すでに最高裁判所において「憲法二二条二項の『外国に移住する自由』には外国へ一時旅行する自由を含むものと解すべきであるが、外国旅行の自由といえども無制限のままに許されるものではなく、公共の福祉のために合理的な制限に服するものと解すべきである。そして旅券発給を拒否することができる場合として、旅券法第一三条一項五号が『著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者』と規定したのは、外国旅行の自由に対し、公共の福祉のために合理的な制限を定めたものとみることができ、所論のごとく右規定が漠然たる基準を示す無効のものであるということはできない。」と判示している(最高裁判所昭和三十三年九月十日判決)ところであり、また、日本人の出国について規定した出入国管理令第六十条が、出国それ自体を法律上制限するものではなく、単に出国の手続に関する措置を定めたものであり、事実上かかる手続的措置のために外国移住の自由が制限される結果を招来するような場合があるにしても、同令第一条に規定する本邦に入国し、又は本邦から出国するすべての人の出入国の公正な管理を行うという目的を達成する公共の福祉のため設けられたものであつて、合憲性を有するものと解すべきは、外国人の出国に関し右同令第六十条と全く同一内容を規定した同令第二十五条について、右と同一の理由で合憲性を有するものと判示した最高裁判所の判決(昭和二九年(あ)第三八九号、同三十二年十二月二十五日判決)に照らし明白である。従つて、同令第六十条の規定に違反して出国した者を処罰する旨の同令第七十一条が適法であることは論をまたない。よつて右弁護人らの主張は採用しない。
(二) 憲法第九十八条第二項違反の主張について。
谷川弁護人は、わが国が加入している国際連合の総会において採択されている「人権に関する世界宣言」いわゆる世界人権宣言の第十三条第二項には「人はすべて自国を含むいずれの国をも立去る権利及び自由に帰る権利を有する」と規定し、同第十四条第一項には「人はすべて迫害から避難所を他国において求め、又有する権利を有する」と規定している。これは確立された国際法規であつてこれを誠実に遵守すべきことは憲法第九十八条第二項により明らかである。海外渡航の自由を奪う出入国管理令は右世界人権宣言の規定に違反し、憲法第九十八条第二項に違反すると主張する。
しかし右のいわゆる世界人権宣言は条約でも国際協定でもなく、従つて法律的な拘束力をもたないものであると考えられており、右宣言の第十三条第二項、第十四条第一項をもつて直ちに憲法第九十八条第二項にいう「確立された国際法規」にあたるとする所論にはにわかに賛同できないし、又出入国管理令が出国それ自体を法律上制限するものではないこと前段説示のとおりであるから、同令が憲法第九十八条第二項に違反するとの所論は到底採用できない。
(三) 憲法第十四条違反の主張について。
谷川弁護人は、本件当時政府は共産党員その他特定の思想信条の持主と目される者に対しては殆んど旅券の下附を拒否してその海外渡航の自由を侵害していたものであり、当時当局から共産党員と目されていた被告人が旅券を申請しても殆んど絶対的にこれを拒否されたであろうことは確実であり、かかる状況にあつた被告人が出国に際し旅券に出国の証印を受けなかつたことを理由に被告人を訴追することは憲法第十四条の法の下の平等の原則に違反すると主張する。
しかし裁判官の証人岡崎勝男に対する尋問調書によれば、日本政府は旅券下附申請者が共産党員その他特定の思想信条の持主(以下共産党員らという)と目される一事をもつて、その発給を拒否したものではなく、ただソ連、中国などの国がわが国と著るしく国情を異にし殊に正規の外交関係が樹立されていなかつた関係上、渡航者の生命、財産等の保護の完璧を期し難いためや、日本国の利益公安を害するおそれがあると認められたため、右のような国への旅券発給が拒否されることが多かつたものであり、共産党員らは専らこれらの国への旅券下附を申請したので、結果的に旅券発給を受け得ないことが多かつたというのであつて、すべての共産党員らが常に旅券の発給を拒否されたものではない事実が認められる。その他本件全立証をもつてしても旅券法の規定をことさら共産党員や特定の信条思想の持主にのみ不利益に適用したと思われる事情は認められない。
従つて被告人が当時当局から共産党員であると目されていたからといつて旅券下附申請をすることなく出入国管理令第六十条所定の手続を経ないで不法に出国すれば同令違反の責を免れるものではないこと当然であり、本件起訴が憲法第十四条に違反するというが如きは独断であつて採用するに由ないところである。
第三、正当行為、超法規的違法阻却の主張について。
被告人及び弁護人は、被告人は朝鮮戦争をくいとめるために、世界の青年や労働者と協力して国際的世論をもり上げ、かつまた鎖国状態にある労働者の目を開かせるために出国しようとしたが、当時政府は共産党員或いは共産主義者らが渡航のために旅券下附申請をしても不当にその渡航の自由を侵害して旅券を発給しなかつたので、共産党員であつた被告人が旅券下附申請をしてもこれを拒否されることは明白であつたし、又右申請をすれば被告人及びその家族に対する当局の監視が強化されるであろうと思われたうえ、情勢は一刻を争う時期であると判断したので旅券なくして出国したのである。被告人のかかる出国は渡航の自由擁護のための行為であり、政府の海外渡航の自由に対する侵害によつて崩壊せしめられつつあつた憲法秩序を保全するものに外ならない。しかも本件出国の結果侵害されたものは単なる政府の政策的便宜に止まり、これに比して被告人の行為によつて保全された基本的人権の価値は絶大である。よつて本件被告人の行為は正当な行為として許容さるべきである。さらにはまた、本件当時は前記のように被告人ら特定の思想信条の持主に対しては違法に海外渡航の自由を侵害していたことは明らかであるから、かかる基本的人権侵害の状態はまさに超法規的緊急状態というべきであり、かかる事情のもとで被告人が有効な旅券に出国の証印を受けずに出国したからといつて違法性ありとして出入国管理令違反をもつて問擬することはできないと主張する。
しかし、前示のとおり本件当時、日本政府が共産党員その他特定の思想信条の持主であることの一事をもつて、すべての共産党員らに対しことさらに旅券法による旅券の発給を拒否しその海外渡航の途を閉ざしたものではないから、当時結果的に共産党員がソ連や中国への旅券の発給を拒否されることが多かつたとしてもそれは憲法の容認する公共の福祉に基く合理的な制限であつてやむを得ないところである。従つて被告人が旅券を得られないと考えたからといつて、出入国管理令第六十条所定の手続を経ないで不法に出国すれば、これが違反の責を負うべきは当然であり、かかる出国をもつて正当行為であるとか、超法規的緊急行為として違法性を阻却するものであるとかいう所論は、独自の前提に基くもので到底採用できない。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 野間礼二)